2010年08月26日

やる気スイッチはいつ入る?


8月12日に東京公演が行われた、
沖縄の中高生が出演する現代版組踊
鬼鷲〜琉球王尚巴志伝

私の周りの観た人が全員、大絶賛、大興奮。

私は残念ながら見ることが出来なかったのですが、
4年に渡って舞台を取材した本がありました。

「やる気スイッチはいつ入る?」

五木田勉 著(学研パブリッシング)

さっそく読んでみたところ、とにかく
惹きこまれて一気に読んでしまいました。

演出の平田大一氏のアプローチは
ブリーフセラピーの哲学と共通する所が多く
カウンセラーとしても学ぶことが多いです。

でも、そういったことを抜きにしても
子供たちの一所懸命さ、
オトナたちの一所懸命さ、
胸が震えて衝き動かされるような気持に…。

本気は、強い。

ああ、残念だなぁ、この本をもっと早く
読んでいれば12日は何としても観にいったのに。

いつか沖縄に観にいってみたいです。
posted by トリカラ at 20:10| 〔Triocolorsメンバーの日記〕 

2010年08月10日

それは確かなの?

先日、友人がTwitterで仕入れた情報を
教えてくれたのですが、
後になってそれが間違いだったと判りました。

つぶやく、という定義どおり
小耳に挟んだ情報を気軽に発信できる反面
それが間違いである可能性も高いわけで。

これはTwitterに限らず、取材と検証を
経ているはずの新聞記事でさえ
間違いが含まれいたりもしますから
情報をさくさく鵜呑みにするのは
ほんとに危険。

間違っていなくても、部分的な情報から
誤解が生じてしまうこと、ありますしね。

これ、普段の人間関係にも似たようなことがあります。

私は、相手の言動にポン!と反応してしまって、
あとになって誤解というか、こちらの理解が
間違っていたことに気づいたりして。

「もっとちゃんと相手の意図を汲むべきだった」
「一言言う前に周囲の状況を考えるべきだった」

これも、相手の言動という情報に
ごく浅いところで
反応してしまったが故のミステイク。

こちらも余裕が無かったり落ち着かなかったりで
相手が発している情報の全てを拾えない。

それはピースが足りないパズルみたいなもので
完成形というか、ホントの姿が見えてない。

ぽんぽん反応してしまわずに、注意深く残りの
ピースを目で追わなくてはいけなかったのに。

いつも、

「自分が得た情報には欠けがあるかも…」

と肝に銘じておかなくちゃいけないなぁ、と反省しました。

2010年07月12日

雨が降って、夏がきた

梅雨明け前から暑い日が多くて
「6月のうちから夏みたいだなぁ」
という気分でしたが

ふと気づくともう7月も半ば!

夏のイメージって、どんなに頑張っても
8月いっぱいというところでしょう?

だとしたら、夏って、あと1ヶ月半しか
無いではありませんか。

夏みたいだなぁ、なんて呑気なことを
言っている場合ではなかった!
意外に早い、夏!なんだか焦って参りました。


みなさん、今年の夏はいかがお過ごしですか?

もう西瓜は召し上がりましたか?

素敵な夏になりますように。
posted by トリカラ at 19:03| 〔Triocolorsメンバーの日記〕 

2010年06月25日

不道徳な人間のおかしみ?

今日のニュースで
「首都大学学生が動画問題で退学に」
というものがありました。

今まで全然知らなかったのですが
ネットでも世間でもかなり問題になって
いたようですね。

不道徳な人間の行動が醸し出すおかしみ、
というテーマでの現代アートのつもり
だったそうですが、
 
履き違え
 
だと思います。悲しくなってしまった。

ひとを笑い者にして
醸し出されたおかしみになんか
魂を揺り動かす力は無い。

(だいたい、全然おかしくない)

昨日、久しぶりに開いた上村松園の画集に
松園のこんな言葉が載っていました。

(60代の松園の言葉、部分)

「私は大てい女性の絵ばかり描いている。
 しかし、女性は美しければよい、
 という気持ちで描いたことは一度もない。

 一点の卑俗なところもなく、
 清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ
 私の念願とするところのものである。

 その絵を見ていると邪念の起こらない、
 またよこしまな心を持っている人でも、
 その絵に感化されて邪念が清められる・・・
 といった絵こそ私の願うところの ものである。

 芸術を以て人を済度する。
 これ位の自負を画家は持つべきである。

 よい人間でなければよい芸術は生まれない。
 これは絵でも文学でも、
 その他の芸術家全体に言える言葉である。
 よい芸術を生んでいる芸術家に、
 悪い人は古来一人もいない。
 みなそれぞれ人格の高い人ばかりである 」

松園の時代には、女性が職業を持つことは
誹謗中傷の対象となったと言います。
親戚や世間
彼女の才能に嫉妬した画家志望者や
三流画家たちからも
「女ふぜいが」
「女のくせに」
と卑しめられ、蔑まれ、数々の嫌がらせを
受けていたそうです。

ある展示会では、
賞を取った彼女の作品に
へのへのも、と墨書きされたとか。

不道徳な人間の醸し出すおかしみが
藝術だと言った人は
へのへのも、も諧謔だと言うでしょうか?

言う筈は無い、と思います。

藝術を志し、骨身を削って
作品を生み出している人であれば
その作品に落書きをすることが
諧謔だとは思わないでしょう。

その感覚と全くおなじ感覚で、

骨身を削って
魂を削って
作品を作っている人であれば、

他人を傷つけることや
笑い者にするのが諧謔だとは
思えないのではありますまいか。

そして、不当な扱いを受けて尚、
上述のように凛とあった
上村松園は
まこと見事な芸術家だとしみじみ思いました。

彼女の在りかたを
 
思うだけで
 
邪念が
 
清められる想いがする。








2010年06月02日

俺がお前を守る!

というドラマティックな台詞は
現実にはもう、あまり無いだろうと
思っていたのですが
台詞はともかく心持としては
いまでも健在なんだなぁ、と興味深く
読みました。

▼ほぼ日刊イトイ新聞
 おとなの小論文教室
http://www.1101.com/essay/index.html

守る、という言葉が使われなくても、誰か
(何か)の庇護下に入ることを奨励されることは
ままありますよね。

個人的な関係性だけでなく
仕事がらみというか、社会的にというか、
たとえばひとつの組織に属することも
組織の傘の下に守られることなのかもしれません。

人間はひとりでは生きられませんので
結果として守られたり守ったりということも
あるでしょうね。

そういう、社会で普通にありそうなこと、を
除いて、純粋に「俺はお前(たち)を守る」って
言われてしまうと、それはやはりキツイかも
しれませんね。。。

お互い助け合っていきましょう、

と言われるなら全然ちがうんですが。

いろいろやってみたら結果として守ったり
守られたりになりました、というのは良いけど、
最初っから守るの守られるのと規定されると
窮屈というか、、、キツイです。

なにがキツイかと考えてみると、、、

まず、守るという立場がキツイ、ような。

山田ズーニーさんのコラム中には家族のために
残業もつきあいもお断りという男性の話がありました。

…家族しか自分の世界に住んでいないって…

それ、ご本人がキツイと思うのです。家族と喧嘩しても
友達や先輩に愚痴れるとか助言もらえるとか
たくさんの関係性があったほうが楽ではないですか?

家族にトラブルがあったとき、いつもヒーローのように
解決できたらカッコイイけど、それって家族の人数ぶん
人生を解決していくってことで、キツイですよねぇ。

あるいは守ってもらう立場。
自分のために犠牲を払ってもらうのも、キツイ。

おまえたちを守るためにお父さんは嫌なことも
我慢して働いてるんだ、と言われて
嬉しいわ!ありがとう!とは言えないですよね。

いや、そこまでしてもらうと逆にキツイ…みたいな。

守られる立場にいるうちに、自分が纏足みたいに
なっていくのも、キツイし。

まぁ、でも、これは私の個人的な感覚。

守り守られることがすごく合ってる、
という人も当然いるわけで。

そのへんの感覚が合っている人同士が
家族を構築すれば、まったく問題ないのでしょう。

それにしても

「俺がお前を守る!」

言わないだろう、さすがに…。言うのかしら…。
posted by トリカラ at 19:31| Comment(0) | 〔Triocolorsメンバーの日記〕